花月草子

清涼山の御亭

2011年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年07月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

折こそよしとて脱ぎおく獅子頭

宝生能楽堂にて「第六回 奥川恒治の会」。
東京ドームでの嵐のコンサートと重なって、周辺の人出の量がハンパではなく、
能楽堂までの道のりがえらく遠く感じる…

脇正面ほぼ中央最前列で少々小首をあげて舞台を見上げるカタチに。
しかし、その席のおかげで屋根の内側の照明を背にした喜之先生の『藤戸』
はまるで後光がさす如く。
コツコツと杖を振りながらの姿から一転、盛綱に一度、再度と刺し貫かれる様
と微塵も揺るがぬ姿は流石の一言しか出て参りません。

『呂蓮』は万蔵さんなので、また寝てしまうかと思って、意識して視点を
扇丞さんの方にうつして、万蔵さんの方は耳だけで聞いて。というかなり
変則的見方をしていたらなんとか持ちこたえました<苦笑 なんだかなぁ…

『望月』
装束のいずれかに「飛田雲」の意匠をほどこす。というのが望月の決マリで
ありまして、奥川先生の素襖の上下は朽葉色のような薄茶にこげ茶で雲が
全体に散らしてあるものでした。内着の熨斗目もおなじ色調でまとめて。

子方の花若はご子息恒成くん。安田の妻は古川先生。
母の唐織は「タンポポ」でした。うーん、やはり仇討ちにかける気持ちの
深さを感じさせますね。

今は宿の主となったかつての郎党小沢と再会を喜び合う母子。
信濃國から仇を探すあてどない旅の中で、近江國というまったく右も左も
わからぬような土地にきて過去を共有する事のできる者と逢うことが出来た。
という想いはまた格別かと思われますが、奇しくも当の仇望月の一行が
小沢の宿に泊まりあわせる事になり、定めの糸車が廻りはじめます。

御教書を賜り領国へ揚々と下る望月に酒宴を勧める小沢。
安田の北ノ方は興をそえるとみせかけ盲目御前(瞽女)に扮して曾我物語の
ひとくさりを。
地謡が徐々に力を帯び、花若の気がはやって「いざ討とう」の声に増す緊迫感。
曾我物語は巻之四の最初あたりかな。詞章ですと美文で修飾してあるのでかなりニュアンスは
違うのですが。諸仏の表記はありますものの、不動は出てこないですし。

このあたりのシテとアイのやりとりは『安宅』の山伏問答もかくやと
言わんばかりでありました。
北ノ方が下に置いた杖をさぐり、持ち直す指先がいかにも美しい。
シテの中入リから花若の八撥。望月の子方は非常に難易度が高いものですが、
確実に恒成くんはステップアップを遂げているようですね。
八撥のお囃子がそのまま乱序にスライドし、二枚扇の獅子頭に覆面姿の小沢が
欄干に足をかけつつ登場!
おお、羽織っている厚板は縅に兜柄ではありませぬか。
さすが兜屋の主。凝っております。

※ところで、盲目御前(瞽女さん)は、我々が思い浮かべるのは三味線を持ち、
 東北から北陸あたりを門づけしながら移動して行く…というイメージがありますが
 古い資料ですと室町末期の「七十一番職人歌合」に「女盲」として挿絵が挿入されて
 います。絵では鼓を打ちながら曾我物語を語っておりますので、『望月』にて北ノ方
 が装っている姿はかなり正確な描写といえるものかも。

望月がうたた寝をはじめて、衾をかぶるようにして獅子頭を取り外すのに
少々焦っていたようなところもありましたがwww
ぐわらつと白鉢巻姿になってからは一気呵成で仇討ち。
今回は望月を直接仕留める向きではなく、傘を見立てて本懐を遂げる演出。
最後に常座で、花若の肩に手を添えながらのまことに晴れ晴れとした幽見でした。

次回来年はまたがらりと雰囲気をかえて『松風』。

≫ 続きを読む

スポンサーサイト

| 能・狂言 | 23:55 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

蟻通 -七曲の穴を辿って- 4

別に忘れていたわけではありませんよ(笑)。と逃げておいて。
えーと、何でしたっけ。そうそう。玉津島神社でした。

曲の中で、貫之は玉津島神社へ参詣する理由をして
ワキ次第
和歌の心を道として 和歌の心を道として 玉津島に参らん
「これは紀貫之にて候 我和歌の道に交はるといへども いまだ住吉玉津島に
参らず候ふ程に 唯今 思ひ立ち紀の路の旅にと志し候」

と述べております。

当時、和歌山(紀伊國)の玉津島神社は攝津の住吉明神、柿本人麻呂を祀る
明石の人丸神社とともに「和歌三神」と崇められており、そこに歌人である
貫之が参詣しようとする話の流れはごく自然のなりゆきとも言えます。

社伝によれば、玉津島の主祭神の一柱である衣通姫尊(允恭天皇妃)がその名の
通りの美しさもさることながら和歌の才にも優れ、後の光孝天皇の御世になって
帝の夢枕に
「立ちかへり またもこの世に跡垂れむ 名もおもしろき和歌の浦波」
との歌を詠みたもうた事から勅命により玉津島に合祀され、歌神として宮中に
おいても定期的に歌を奉納する歌会を催してきたとの事。

しかし、玉津島の主祭神は衣通姫尊だけではなく
(というより衣通姫尊は後から合祀された人神ですので)、
もう二柱いらして、まずはなんといっても重要なのは稚日女尊。
そして、「神功皇后」として名高い息長足姫(息長帯日賣)尊。

稚日女尊は天照の妹神として記紀に記録されております。
書紀には
この後に稚日女尊が機殿で、神衣を織っておいでになった。
素戔男尊はそれを見られて、まだら駒の皮を剥いで、部屋の中に投げ入れた。
稚日女尊は驚かれて機から落ちて…(後略)
※書紀 神代 上 天の岩屋 一書(第一)
との天の岩屋の原因の一つともなった有名な一くだりに登場。
また後になって神功皇后の三韓征伐の翌年、諸皇子の国内反乱を平定する際に
姿を現し「活田長峡國(現・摂津國生田神社)に居りたい。 ※書紀 神功皇后
との託宣をします。

さて神功皇后の件についてはまた後の機会として、稚日女尊について話を進めますと、
稚日女尊はいつごろからか定かではありませんが、早い時期から丹生都比売大神と
同一視されることとなりました。
丹生都比売の「丹」は朱=辰砂(硫化水銀)を表し、水銀鉱脈の存在する場所を、
「丹が生まれる」と書いて「丹生」と読みます。
(鉱物を研究される学者間の意見では、「丹」は水銀だけではなく、鉛を元とする
「鉛丹」も含むとされるようです)
辰砂はそのまま朱色の顔料となり、それを精製すれば水銀となり、またお白粉の材料に
もなり、丹生都比売大神は、水銀の採掘に携わる者たちが崇拝する神でありました。
丹生都比売大神を祀る神社は水銀鉱脈などにそうようにあちこちにありますが、この度
クローズアップされるのは現在の、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある総本社
『丹生都比売神社(別称:天野神社、天野四所明神)』。
正応六年(1293)三月二十八日付けの太政官牒写には天野四所明神(丹生都比売神社)
のうち「三大神号蟻通神」の神託がのことが記されており、天野社にも蟻通神が
祀られている。と記述されていました。
で、丹生都比売神社内の蟻通神社は後年、高野山との領有のいざこざで1300年代
にはもう別のお社になっていたとか。※続風土記
これがいわゆる「伊都の蟻通神社」であると思われるのです。
(諍いの原因は「志富田しぶた の領有」とあるので間違いはないかと)

ちなみに、紀伊國では丹生都比売神社と前述3の日前神宮・國懸神宮と伊太祁曽神社、
あわせて三つの神社をすべて一宮扱いにして祀っています。
日前神宮・國懸神宮はそれぞれ前に述べたように神鏡を祀っておりますが、実は
古代鏡の製作の仕上げには水銀がかかせぬものでもあるのです。
以前、伊勢の式年遷宮による、新しい宝物製作を追ったTX系列のドキュメンタリー
が放送されたのですが、鋳型から外した鏡の表面を根気良く丁寧に磨いた後、
職人さんは水銀と錫の混合物を一匙とり、布で見る見るうちに鏡面に伸ばしつけ、
それはそれは美しい鏡面が完成するのです。

貫之は鏡を祭る紀氏の出。玉津島の御祭神、天照の妹神たる稚日女尊は、鏡造り
に欠かせぬ、また不老不死、太陽の力を示す朱を生み出す丹生都比売と同じで、
その丹生都比売神社には元々蟻通明神が祀られていた。

これはまた、妙な展開に…
丹生神社の謎はまだ続くのでございます。

| 硯にむかひて | 14:57 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。