花月草子

清涼山の御亭

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蟻通 -七曲の穴を辿って- 3

今日は紀貫之と紀氏のことなど。

貫之の生年については諸説ありますが、一応貞観年間のことではないかという
説が多いようです。
従兄弟の紀友則も生年不詳ですが、こちらは承和年間とも言われているので、
若干年の離れた従兄弟という事になりましょうか。

貫之の父は
紀望行。下野守紀本道の子で名は茂行とも表記。六位の官人 ※勅撰作者部類
この方も生没年不詳。
母は宮中の内教坊の女性(妓女)とされており、幼い頃は母と共に内教坊で育てられ
(『内教坊』:奈良・平安時代、宮中で舞姫をおいて女楽・踏歌などを教え練習させた所。 ※大辞泉)
童名を「内教坊阿古久曽 (あこくそ)」と呼ばれていたとか。※古今集 清輔注・続群書類従
「久曽」は「○○ちゃん」という意味になるので、現代読みにすれば「あこちゃん」。
ということで、幼少の頃から(女房ではない)女性に囲まれて育ったというのは貫之の
感受性に大きく影響を与えたのではないかと推察されます。

さて、貫之、友則と三十六歌仙の二人を生み出した紀氏は一般に「和歌の家系」と
とらえられる事が多いですが果たして。

紀伊続風土記によれば神武の頃より続く国造家の一つで、その家系は天皇家のほか、
出雲国造家、諏訪大祝家などと肩を並べるほどに歴史が古く、現在も紀家の方が
紀伊國一宮である日前神宮・國懸神宮を奉戴し祀っているという事です。
日前神宮の御神体は岩戸隠れの際に、神々が天照を外に出すために用いた御鏡と
されています。
主神は日前神。
相殿の神はこの謀事をめぐらせた思兼神と、鏡を製作した石凝姥(イシコリドメ)命。
「石凝姥を工として、天香山の金を採り。日矛(鏡)を造らせた。また鹿の皮を剥いで
フイゴを造った。これを用いて造らせた神は紀伊國においでになる日前神である」
※書紀 神代 上 天の岩屋 一書(第一)
「上の枝には鏡作部の遠い先祖の天抜戸の子、石凝戸辺命が作った八咫鏡を・・・(後略)」
※同 天の岩屋 一書(第三)
古事記では
「思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を
採り、天の金山の鐵を採りて、鍛人天津麻羅(カヌチ アマツマラ)を求ぎて伊斯許理度賣命
に科せて鏡を作らしめ」※古事記 四 天の石屋戸
とあります。
つまり、この神宮両社の御祭神は相殿神も含めて

日前大神:八咫鏡(天照の前魂“さきみたま”)
思兼命:天照を引き出す案を考えた
石凝姥命:鏡を作った
玉祖命:鏡と共に飾った八尺瓊勾玉を作った
明立天御影命:鍛治(鋳物・刀匠)の神(鍛人天津麻羅?)
鈿女命:いわずもがな

と、岩戸作戦の実行メンバーがズラリと揃っております。
また、このうち、石凝姥命・玉祖命・鈿女命は他の岩戸メンバーである天児屋命、
太玉命と一緒に瓊瓊杵尊に従った天孫降臨メンバーでもあります。
この際、天照から瓊瓊杵尊に鏡と勾玉が下しおかれたと書紀 ※神代 下 葦原中国平定
にはありまして、まぁ八咫鏡といえば伊勢にあるものが有名なのですが、
この日前神宮・國懸神宮でも同じ意味をもつ鏡を祀っていますので、後には朝廷も
両社には神偕・神位を贈らず、伊勢とほぼ同等の社格を持つ「日の神を祀る」御社
として崇敬を集めていたといいます。
また、紀氏の祖神は天道根命と伝えられており、天孫降臨について従ったとされて
いますがこれも諸説あり、
「瓊瓊杵尊に従い、神武東征の論功により紀伊國を賜る」※紀伊国造系図
や、瓊瓊杵尊ではなく、饒速日尊についてきた。とする説もあり、このあたりは
はっきりとはしていません。ついでに
「紀伊国造は五十猛命、大屋姫命、抓津姫命の所謂伊太祁曽三神を祀る」※先代旧事本紀
としている説もありましてね・・・ 先代旧事本紀てあたりがうさんくさい気がしなくもない<苦笑
ただ五十猛神たち三神は林業神なのですけど素戔嗚尊の子で、現在の日前・國懸神宮
のある場所に元々「伊太祁曽神社」として祀られていたのを垂仁16年に両神宮が建て
られる事になりその地を開け渡した。と社伝にあり。
「紀ノ國」の語源は「木ノ國」との説も捨てがたいですね。

さらに、紀氏には武内宿禰の血筋にも連なるとの記録が書紀に記されており、
景行三年春二月一日、紀伊國に行幸されて、諸々の神祇を祭ろうとされたが、占って
みると吉と出なかった。そこで行幸を中止された。屋主忍男武雄心命を遣わして祭らせた。
武雄心命は阿備の柏原にいて、神祇を祀った。そこに九年住まれた。紀直の先祖莵道彦の
女(娘)影媛を娶って、武内宿禰を生ませた。※書紀 景行天皇
との記述。
古事記ですと宿禰の父は孝元天皇の皇子で比古布都押之信命となっており
ますが、この辺はまぁどちらでも。
宿禰の子は多く、いずれも蘇我臣、巨勢臣、葛城臣など沢山の氏族がここから散って
行くのですが、母方の姓を受け継いだ紀臣(紀氏)も含まれます。
そして宿禰自身はこの後、神功皇后の三韓征伐に宿禰は赴く事になりますが…

とりあえず、(建前上)紀氏は日の神(鏡)を祀る一族であったという事。
廷臣となった後は武職を持って仕えるも(飛鳥朝あたりまで)、後に藤原氏の台頭に
より中央政権からは退き、社家、また文の才をもって仕えるようになっていきます。

さて、蟻通明神とはどうつながっていくでしょう?
おや?確か伊都の神社の今の主神は思兼神でしたね?

次は曲の詞章中に登場するもう一つの御社。玉津島神社の事など触れてみたいと。
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| 硯にむかひて | 16:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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蟻通 -七曲の穴を辿って- 2

神社やその背後に連なる背景については色々と資料が錯綜している状態ですので、
まずは「蟻通明神」の基本をおさえる為に両社の縁起を並べてみます。

「蟻通明神」とはそもいかなる由縁を持ってその名とするのか。
まずは長滝の神社から。
記紀にての記載はありませんものの、御由緒によれば、
祭神は大国主命(大己貴命)
開化天皇 紀元93年に創祀、五穀豊饒長寿の神として祭られる。五世紀頃に新羅より
新羅王億斯富使主※ 率いる優秀な技能集団が渡来し、条里制農地を造り国土開発の
神として崇められる。
え?大国主命??
新羅王億斯富使主※ についてはちょっと今は頭の隅にでも覚えておいて下さい。

蟻通伝説についてはちょっと長いので私訳でかいつまんで。枕草子がお手元にある方は
二百四十四段をあわせてご覧下さい。
時の帝は若い者のみを尊び、老人をいたわる事をしませんでした。
さらに、「四十歳以上の者は全て山などに捨ててしまえ」などと触れを出す始末。
孝行者の中将は命に背いて密かに屋敷内に地下室を造り、老親をかくまっていました。
ある日、外国の使節から帝は三つの難題を出されます。解答がなければ攻め寄せると。
中将は親に相談し、先の二つの謎を解き、最後の難題。七曲の玉に糸を通す方法を親に
尋ねます。
「わけはない。玉の片方の穴に蜜をぬり、蟻に糸を結びつけて入れれば糸は通る」
帝の前でその通りにしてのけた中将に、帝は
「見事だ。どのようにして考えたのか?褒美をとらせる」
と褒めますが。中将は答えて、
「これ全て私の老親が答えを示したものです。褒美と仰せならば、老人を世に
かえしてやって下さいませ」
帝はいたく感心し、「老人の知恵は国の宝である」と老人解放の許しを出し。中将は
大臣の位までのぼり、後には神となったとか。

もう一つ。
こちらは伊都郡かつらぎ町の蟻通神社(以下、「伊都の神社」とします)の御由緒。
開化天皇の時代に勧請。崇神天皇の時代に意富多々泥古神を神主として拝祭
したと伝わる。
(現在の祭神は思兼命)かつての祭神は意富多々泥古。
三輪氏の意富多多泥古さん再登場。さらに
天武天皇白鳳二年(673年)唐の高宗が日本国の知恵を試さんと七曲の玉を
献じこれに糸を通せと難題を掛けてきた。そこへ一人の翁が現れ山蟻の腰に糸を
結んでこれを玉に入れ一方の出口には蜂蜜を塗った。蟻は密の香りを慕って七曲
の玉を通り抜け、見事糸を通すことが出来た。翁に名を問うと
「七曲にまがれる玉の緒を貫きて蟻通しとは誰か知らずや」
と一首歌を詠んで消え去ったと伝わっている。拠って神人ならんとこの年神号を
蟻通と賜り志富田(渋田)荘の氏神として崇め祀る。-境内の由緒碑より-
最初が人(中将)か、あるいは最初から神様であったということはさておき、いずれにしても
「七曲の玉にを使って糸をした」という点がポイント。
話の伝承は一般的な昔話である「うばすて山」のカタチを取って各地にも残っており、
それによって「玉」であったり「貝」であったりとモチーフは変わるのですが、おおまか
内容は同じです。
(長野県下伊那郡にまでほぼ同じ話が伝わっています。 岩波文庫『日本の昔ばなしⅢ』

しかし・・・ここでもまた大国主と意富多多泥古とは<苦笑

| 硯にむかひて | 18:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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蟻通 -七曲の穴を辿って-

『蟻通』
シテ:宮守/蟻通明神
ワキ:紀貫之
ワキツレ:従者

能『蟻通』は貫之の玉津島参詣の途次、和泉國での話として描かれていますが、
『紀貫之集』巻十においてはこの出来事は
紀の国に下りてかへり 上りし道にて にはかに馬の死ぬべく患ふ所にて 道行く人々
立ち止まりて云ふやう
「これはここに坐すがる神のしたまふならん 年ごろ社もなくしるしも見へねど いと
うたてある神なり さきざきかうやうに患ふ人々あるところなり 祈り申したまへ」
と云ふに 幣もなければ なにわざすべくもあらず ただ手洗ひて膝まづきて神坐すがり
げもなき山に向かひて
「そもそも何の神とかきこえん」
と問へば
「蟻通の神となん申す」
といひければ これをききて詠み奉りける そのけにや 馬のここちやみにけり

かき曇りあやめも知らぬ大空に、ありとほしをば、思ふべしやは
うーむ。
何か違ってきました。曲では往路の出来事だけど記録では復路の話なのですね(笑)

現在、蟻通明神といわれて有名な神社は二つありまして、
・蟻通神社 :大阪府泉佐野市長滝
・蟻通神社 :和歌山県伊都郡かつらぎ町東渋田
とあります。他にも同じ名を持つ小さな御社はいくつかありますが 代表的な御社
はこの両社。

長滝の神社の御由緒については
もと熊野街道沿いに鎮座し、長滝をはじめ、
紀州へ往来する人々からの信仰をあつめていた。
とあり、平安の御世には、貫之の故事も踏まえて文献にも記されるようになり、
「蟻通」の名を世に広くなさしめた模様。
長滝には貫之の馬が倒れた際に冠が外れて渕に落ちた。とされる「冠之渕」も
残されています。
(ちなみに長滝の神社は終戦間際に佐野飛行場建設により大幅に境内が縮小されており、
また鳥居、冠之淵なども昭和になってから当時とは違う位置に設置しなおされています
ので、往時の姿とは大分違うようです)

ですので能『蟻通』の明神は長滝の神社ではないかと考えれば良いかとも思いますが
話はそんなに簡単なのでしょうか。

色々と整理しつつ考えてみたいと思います。

| 硯にむかひて | 17:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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晴耕雨読のGW

五月に入ってから足を負傷(大した傷でもないのですが、出歩くには支障アリ)
したので、このGWは特に出歩く事もなく、晴れている日中は土いじりをし、
日暮れてから、また雨の日は万葉、記紀などを読みなおしたり、
また唐詩、史記といった漢籍に改めて目を通す日々。
お能の詞章などは掛け言葉のオンパレードですし、漢籍や仏典の理解も重要な
ポイントになる事が多く、折々に紐解いていかねば。

今でこそ、こうした書物は書店で探したり、ものによってはWEB上でテキスト化
されているものを見て読むこともできますが、
かの昔には「式楽」として武家社会の必須教養であったというのも納得。

そういえば、先日金曜の水戸黄門再放送でも紀州の大納言様が床払いの祝に
能会を開いて御自ら猩々乱を舞うという設定でした。
献上される猩々の面についての薀蓄もさる事ながら、実際に乱を舞っていた
のは「お約束」で紀州公とすり替わった御老公。
御老公はブッツケで乱を舞えるのが話の前提。というのが流石というべきか。

| よしなしごと | 00:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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