花月草子

清涼山の御亭

2011年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年05月

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2011年 明治神宮春の大祭

左方振鉾 昨年まるまる来る事ができず、
 2年ぶりの大祭。本年春の舞楽は
 『振鉾』二節
 ・左方壱越調 四人舞『承和楽』
 ・右方高麗壱越調 四人舞『仁和楽』
 『長慶子』
 と、和製の番舞での舞となりました。
 今日は左方の少し社殿よりの席で。



右方振鉾 ほどほどに雲もあり、いつもより
 日焼けもしないですみそうです。
 吹き抜ける風も爽やかに楽人の先生方が
 大袖をひるがえし席につかれると、
 神職の御祓いがあり、まもなく振鉾の開始。

 「天地長久 政和世理 国家太平 雅音成就」
 とは振鉾の際に唱えられる鎮めの詞。
 まさに今の世を鎮めて欲しいもの。


『承和楽』
仁明天皇(深草帝)の御世、勅命にて大戸清上作曲・三島武蔵作舞とされる曲。
作られた翌年の菊の宴にて奏され、元号にちなみ名づけられました。
作曲については別人説もあり、こちらでは承和元年(834年)という話になって
いるとの事。
承和楽01 承和楽02

『仁和楽』
光孝天皇(小松帝)御世、百済人貞雄に勅命がくだって作曲。日本で初めて
高麗楽形式にのっとって作られた曲と言われており、曲名はこれも当時の元号
から採られました。
装束は襲の右肩袒か、蛮絵装束でくるのか。と考えておりましたが、今日は襲。
仁和楽01 仁和楽02

二曲いずれも、唐楽、高麗楽の特徴をいかしながら、またそれだけではない
大らかさを併せ持っている感があります。
舞も緩の中にもタメをたっぷりと取って一つ一つの流れの中に緊張感が持続
するような。

ちなみに仁和年間には今年と同じような大規模自然災害が二年続けてあった
ことが記録に残されており、本年の曲が決まっていたのは大分以前の筈なの
ですけれど…これも何くかの縁か…

原宿駅のツツジ 原宿駅臨時ホームのツツジが
 綺麗に咲いています。
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| 雅楽・舞楽 | 16:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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いけませんねぇ

なんだか、今年の休日は別趣味である園芸作業がたてこんで、
正月からいくつかの舞台は拝見しつつも数としては殆ど見ていないような気が。

GWもこんな調子なのだろうか。

な、なんだか・・・ orz

| よしなしごと | 23:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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墨絵製作

週末など、夜更かしできる日を利用しつつ、ポチポチと拵えています。
できれば十二月毎に曲を当てはめられるのが理想ですが、条件にあい辛い
季節には季不定曲の中で、そこそこ無難そうな所で手を打つ月もあるかも…

フリー素材を拝借して組み合わせたり、自分で撮った写真を元に加工したり、
筆でチョコチョコと描いたものを取り込んでみたり。
結構楽しいもので。

今どうしようか考えているのは七月です。
なかなか曲が見つからなくて。『生田敦盛』も七月なんですが、
すでに八月に『敦盛』を以前作ってしまいましたので、
あまり似たようなものが続いてもねぇ…

やっぱり季不定曲かしらん?<苦笑

| よしなしごと | 23:58 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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月も影そひて光陰を惜み給へや

目黒の能楽堂は久しぶりです。
全体的に桜が遅めな事もあり、教会など近隣の桜もまだ三分咲きといったところ。

本日は香川先生の会の五回目で曲は『朝長』。
平成十四年に初演されて以来、二度目でいらっしゃるとか。
狂言の方も東次郎さんの『鱸包丁』とあって、見ごたえはたっぷり。

しかし・・・東次郎さんの那須語もかくやといわんばかりの、ばりばりの仕方の語りが
気持ち良すぎて途中で一度落ちる orz すいませんすいませんすいません<泣
最後のオチは『謀生種』を先に見ていると判りやすいかなぁ。と。

『朝長』
前シテの長者の唐織は色無の花尽くしだったのですが、その深い緑の色合いが大変
美しいものでした。
かつては義朝の寵妾であったという美しさの名残と慎ましさを留めているかのよう。
平治の乱に破れ敗走した義朝一行をもてなすも、やがて義平は石山寺で捕らえられ、
佐殿も捕らえられ、と義朝の周囲から櫛の歯が一本一本欠けていくかのように、刻々と
悪化する戦局。義朝の側にいて、その報告に長者が身を焼く想いが詞章を通して
伝わってくるかのようで。

この時、朝長は既に膝を射られ、その負傷はひどく、進むもならず、退くもならず。
ただ、父の足手まといにならぬよう、雑兵の手にかかるよりは、と自害して果てる
言いようのない最後を迎え、長者はその一部始終の証言者となっていく。
戦の世のならいとはいえ、不憫な最後を迎えた源氏の御曹司を長者は手厚く葬り、
七日七日の供養をかかさず。と、まことに実の母のような優しさ。

ワキの僧は元々朝長の乳人を務めていた人物でもあります。
朝長を育てた人間と、最後を看取った人間の出会いとしみじみと語り合う設定がこの
作品を引き立てているような気が。

後シテの十六歳の若い源氏の御曹司が矢傷を負ってより後、自らの腹を一文字に
かき切って息絶えていく様は圧巻。
悪源太と言われた兄とも違う、後に為政者の手腕を発揮していく弟の気性とも違う。
中途半端な次男という立場ゆえの哀愁と、その立場のしがらみに悩みながらも、
自分はもののふの一員であるという気概と覚悟のこもった割腹。

父義朝や鎌田正清がその遺体にとりすがって嘆くというのは平治物語にはない部分で
脚色と思われますが、実際のシチュエーションを考えれば無理のない展開かと。
(むしろ平治物語の方に無理がある)

詞章では鎌田正清と渋谷金王丸は一緒くたにされているようです。
巷間では土佐坊昌俊(正尊)と渋谷金王丸は同一人物という「ホントかよ」な説話も残って
いるようですが、義朝の最後を常盤御前に伝えに赴いたのが金王丸とされているので、
そこはちょっとマユツバ…

後場のクセの部分にさしかかったあたり(17時少し前?)でドキッとするような余震が
ありまして、多少見所はざわついたものの、舞台は微動だにせず、却ってますます
揺ぎ無く。曽和正博先生と國川先生の重厚な響きの大小ともあいまって、引き締まった
緊張感が最後まで持続したのは流石でした。

次回、来年の会は『安宅 延年舞 』です。
個人的に香川先生の武蔵坊はとても楽しみなのだけど、以前の『攝待』の事が頭に
残っているので…若干不安…

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| 能・狂言 | 22:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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