花月草子

清涼山の御亭

2010年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年09月

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一番本収納箱製作中

母が趣味の彫工の先生を介して、私のために一番本などを収納できる箱を
今、指物職人さんにお願いして作ってもらっています。
果たせる哉、その指物師さんが偶然にも他流ではありますが、お謡を習って
いる方でしたので、箱の寸法、使い勝手などこちらが言わなくてもよく考えて
作って下さっている模様。(註:一応見本の謡本は一冊お貸ししました)

今は箱本体の出来上がり待ちの間に側面に彫ってもらう柄や漆の色具合などを
母と協議中。
単純に観世水と千鳥の群れを彫ってもらうのも良いし、松竹梅も良いよねー。と
なかなか決まりません。
漆の希望としては木目を生かして飴漆にしてもらいたいなーというのが私の希望。

ま、何はともあれ、箱本体が出来てきてからの話です。
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| 仕舞・お稽古 | 15:31 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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竹生島

前回の岩船と続いて龍神続き。

夏場の龍神は暑いせいかクラクラ感強し。
琵琶湖の湖面を波を蹴立てて飛行するどころか、
蹴立てて墜落しそうです。

ああ、で、でもここを乗り切っても、きっとその後に舞働キが…orz

| 仕舞・お稽古 | 23:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『三輪』考 5

前回は仏教的観点からの考えを述べましたが、再び神としての三輪明神に話を
戻しますと、
三輪明神の「罪を助けて」の苦しみは菩薩の修行のみではなく、神体としての
側面にもまた同様に存在します。

またもろもろの竜衆は、 三熱の苦を受けて昼夜に休むことなし。※往生要集・巻上

海中に棲む龍族には、三熱の苦がある(熱風・熱砂に焼かれる苦、暴風に吹かれる苦、
金翅鳥に喰われる苦)。※今昔物語集・巻十一 十五

三輪明神は蛇体(龍と同義)の神です。
三熱の苦云々で悩んでいる神様といえばお能では『葛城』もそうですが葛城の神も
大国主神(大物主神)と深い関係のある神であります。
葛城の神様も同じように五衰三熱の苦を受けています。で、これは仏教思想であるから、
法力のある高僧でないと助けられない。そこで僧都にお願いすることになるのです。
ただそれは後シテに明かされるように神による
シテ
衆生済度の方便なるを

だけど。なんだかホントに仏教て御都合主義よね。

それから、三輪明神は自分の本性が蛇体であることをとても恥じています。
恥ずかしすぎて、自らの正体を知って驚いた妻(倭迹迹日百襲姫)を殺してしまう
くらい恥ずかしい。※日本書紀・崇神天皇 大物主祭祀
後に語る神婚譚のくだりでも妻(活玉依姫)に「あなたは何故、夜しか来ないの?」
と問われて
シテ
げにも姿は羽束師(はづかし)の 漏りてよそにや知られなん 今より後は通ふまじ
契も今宵ばかりなり

とか言ってしまうし。
ちなみに京都伏見には「羽束師神(土師の神)」を祀る神社があります。

僧都も山の麓に庵を結んでいるくらいなら三輪明神が蛇神たる事は百も承知の筈。
しかし、それでも庵を立ち出て「杉むらばかり立つなる神垣はいづくなるらん」と
明神を訪ねて行くのです。
明神も蛇体とは知られながらも、それと知っていて自ら足を運んでくれた僧都を
シテ
千早振る 神も願のある故に 人の値遇に 逢ふぞうれしき

と喜んで迎え、改めて罪を助けてもらうことになります。方便だけど。

そして話は神婚譚故事と三輪の名の由来を経て、いよいよ岩戸隠れのクライマックス…
ですが、もうこの先はあまり書くこと無いですよね。
一身同体説も以前書きましたし、お目出度く曲が終るための岩戸神遊故事ですので。

ただ、「なぜ女体なのか」という部分を何も考えないで乱暴に言うと、三輪明神が
憑依しやすい体質だった里女の身体を巫女として使った。という見方もあるんですよ。
舞は「神楽」ですから。<「神楽」は女体神か巫女が舞うものとお能では相場が決まってる
でもそこで片付けちゃうと矛盾することがあちこちに出てくるので…と
一応、今回のエントリー5回分が私の個人的見解です。

探っていけば本当はもっと深い部分にいきあたる話ではあろうと思います。
三輪山の頂上には太陽神を祭る神社(神坐日向神社)が建っていた記録もありますし
※延喜式・巻九、十 延喜式神名帳
祭祀遺跡や古代の政権紛争とか色々と興味深い部分もありますが、その辺はもう
2回目で書いたようにお能とは関係がなくなってくるので、民俗学や神話学などの
専門家の方におまかせ。という事にしたいと思います。

他の曲の背景もまた機会があったら考えてみたいですね。
ちらとふれましたが、『葛城』の神(一言主)は大国主の御子神の事代主と資料に
よっては同一視されてしまう部分もありますし、またなにか見えてくるものもあるかも。
それではまた。

本棚にあるハズの日本霊異記が発見できないのですよ<泣

| 硯にむかひて | 17:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『三輪』考 4

少々間があきましたが。

では、『三輪』における明神の姿はなぜ菩薩形でないといけないのでしょう。
本来の本地であるはずの大日如来ではなぜいけないのか。
前場、後場に出てくるシテや地謡の詞章をちょっと並べてみます。

シテ
げにや老少不定とて 世の中々に身は残り 幾春秋をか送りけん
あさましや成す事なくて徒らに憂き年月を三輪の里に住居する女にて候
又この山陰に玄賓僧都とて 貴き人の御入り候ふ程に いつも樒閼伽の
水を汲みて参らせ候 今日もまた参らばやと思ひ候。
地・下歌
柴の編戸を押し開き かくしも尋ね切樒 罪を助けて賜び給へ
シテ
恥かしながら我が姿 上人にまみえ申すべし。罪を助けてたび給へ。
シテ
それ神代の昔物語は末代の衆生のため 済度方便の事業 しなじな以つて世の為なり

如来は最早、悩みをはじめあらゆる煩悩を断ち切って悟りを開いた、いわば
「パーフェクト」な仏なので、上記のように悩んだりする事はないわけです。
対して菩薩は未だ修行中の身。人々の中にあっていかにこの世の衆生を救おうかと
日々を送っている仏様。

三輪流聞書口伝によれば、この菩薩は「十一面又如意輪トモ伝」というように
観音菩薩であるということになるので、そうなると、毎日僧都の元に通って来る
際に左手に持つ閼伽の水は菩薩の持物「水瓶」と見ることができそうです。
註:菩薩の水瓶には閼伽水が入っているとされ、水瓶は比丘(比丘尼)が必ず持っていなければ
ならない十八物であります。※梵網経(下) 第三十七軽戒


また樒は、真俗仏事論において
「樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。
その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す」
とも書かれ、密教では青蓮華の代替物として御修法につかわれた植物で、
今では密教に関わらず、仏事にはかかせない植物ですね。

菩薩は里女の姿をとって自らの懊悩を僧都に語り、また教えを乞い、
「罪を助けて」=迷いを払いたいと考えているフシが。
また、
御衣を一重たまはり候へ
と僧都に衣を求め、僧都もまたこれに応え、
易き間の事この衣を参らせ候
との流れは、単に「秋も夜寒になり候へば」というだけではなく、
仏教において師にあたる僧が弟子に衣(或いは袈裟)を与えるという事は弟子に
「その正しい法を伝授しえた」証、あるいはこれから「戒律の保持者になるため」
の証として行うものであり、これは禅宗の伝法儀式が有名ですが、多かれ少なかれ
似たような儀式は他の教義でも見受けられます。
僧都は里女(菩薩と見破れぬも)に対して、優婆夷として修身を積んだ証に袈裟
とは言わないまでも快く衣を与えたものと考えた方が自然のような気がします。

そして里女は去り際に
シテ
その上我が庵は 三輪の山本恋しくはとは詠みたれども
何しに我をば訪ひ給ふべき なほも不審に思し召さば 訪ひ来ませ
地謡
杉立てる門をしるしにて 尋ね給へと言ひ捨てゝ かき消すごとくに失せにけり

と言葉を残してかき消えてしまう。
ここで引用されている古歌は
「我が庵は三輪の山本恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門」 ※古今集 読人不知・巻十八・九八二
読人知らずとなっていますが、三輪明神の神詠とも言われています。
神の後についていって、杉の下にたどりつく。というあたりは先にも述べましたように
活玉依姫故事の引用かと思われますが・・・

次あたりでそろそろ終りたい・・・

| 硯にむかひて | 15:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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御不幸に…

過日、金春信高先生がお亡くなりになって、まだ間もないにもかかわらず、
この度は京都で片山慶次郎先生がお亡くなりとの事。

金春信高先生の舞台を拝見する機会は残念ながら世代上ありませんでしたが、
片山慶次郎先生はいくつか拝見する機会もありました。

ここのところ個人的にもいろいろあって、お能に限らず舞台の公演に伺うのは
控えているのですが、最近は村瀬先生、宝生前宗家、河村先生、関根先生などと
一線を退いていた方も、また現役活躍中という方と、色々と訃報に接してきまして、

打ち続く不幸に一愛好者としての立場からも少々しおれ気味です。
謹んで合掌させて頂きます。
            夏椿

| 能・狂言 | 23:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『三輪』考 3

そういうわけで、考える下地はどうにかこうにか格好がついた形になりました。

さて、時代はここからぐっと下がって奈良~平安初期。
再び玄賓僧都に触れてみます。
玄賓僧都は河内弓削氏の出身で(弓削氏といえば物部氏。ということでここからして
「なんだかなぁ」という気もしますが)山階寺(後の興福寺)で修行をつみ、
三輪山の麓に庵を結びます。後に前述のように伯耆に下る。
大神神社の境内には今も中入リから後シテ登場までに登場する「衣掛杉」が残って
います。

さらに仏法の影響を受けるにつれ、神社の中に神宮寺が設置されるように
なりますと、三輪も例外ではなく大神寺をはじめとして、大御輪寺、さらに平等寺、
と、密教系の神宮寺が次々と造られていきます。そこでまず当時流行のきざしを見せ
はじめた本地垂迹説により両部神道※の受け皿ができてくるわけです。
※真言宗の見解、立場からの神道解釈に基づいた神仏習合思想。

鎌倉時代になると南都の名だたる僧も伊勢参宮に出かけるようになり、
あちらの氏寺などで法要を行ったり、と行き来が盛んになり伊勢の思想が
三輪にも持ち込まれることとなりますが…元々、大物主と天照大神を同時に
祭祀していた三輪では受け入れ易い思想だったのでしょうね。
三輪上人慶円(神宮寺大御輪寺、平等寺と関わる御僧)が「三輪神道」として
提唱した(慶円ではなく鏡円であるとの説も)
「両部神道から「日本書紀」神代巻を解釈し、天照大神・三輪明神同体説」
が爆発的にヒット ※その2で書いた大田田根子の一件…アレの超拡大解釈です

三輪山縁起(※奈良女子大学関連資料より引用)より以下抜粋
「当山麓には八所権現があり、三輪山の北は伊弉諾・伊奘冉を祭神とする
檜原大明神が金剛界大日、南の大神大明神は胎蔵界大日也」
(北金剛界大日 南胎蔵界大日 中不二大日也 北者檜原大明 伊弉キ伊弉ミ也
南者大神大明神 天照太神也)
「当社と伊勢と一体異名炳然也」
「大己貴尊の三輪降臨は伊勢より早く神代のことであり、当山の「御諸山」は本地
を尊ぶ名也」
…等など
(檜原神社の祭神が取り変ってイザナギ・イザナミになってしまってる
のが気になりますが…)

でも『三輪』の後シテは女神の形をとっているので、
「大日如来って言われても、な~んかピンとこないんだよなぁ~」
とお思いのそこのアナタ。
・大御輪寺ノ伝ハ大日 平等寺ノ伝ハ十一面又如意輪トモ伝※三輪流聞書口伝
ちなみに大御輪寺の本尊は十一面観音立像
(この観音立像は明治の神仏分離令により桜井の聖林寺にうつされました)
というように三輪明神は観音菩薩の姿をとる伝えもあるのですね。
大体、お能では菩薩は女体で表されることが多いので、
ワキの玄賓僧都が相手をしているのは明神の菩薩体ということになるわけだな。

そろそろわかってきたかも?
てか、全然お能のストーリーまでたどりつけないよ ヽ(`Д´)ノウワァァン!!

| 硯にむかひて | 16:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『三輪』考 2

さて、『三輪』では後シテのクセにおける神婚譚のあと、唐突に伊勢との
つながりを強調するように岩戸隠れの話がはじまってしまいます。

書紀では崇神天皇五年に疫病が流行り国が疲弊したため、天皇は、それまで
一緒に祀っていた天照大神と倭大国魂を、その神威を畏れ天照を豊鋤入姫命に
託し大和笠縫邑にお移しし、大国魂神も別にわけて祭られました。
そこでかの大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神憑りして
「大田田根子(意富多多泥古:大物主と活玉依姫の娘)大物主神の祭主とし、また
市磯長尾市を大国魂神の祭主にするように」 ※日本書紀・崇神天皇 大物主祭祀
と、神託を出したのですが…アノー「大国魂神」「大国主神」と同一神
なのよね。※大國魂神社 由緒書
大和神社の三柱の御祭神の中にちゃんと「八千戈大神」と記されているし、
御祭神が複数いる場合は筋の近い神様を祀るものですし。※八千戈は大国主の異称
倭迹迹日百襲姫命は後に大物主の后の一人になりますが、閨で失礼を働いたため
神威の怒りに触れて身罷りました。そして箸墓古墳の主となったという…
※日本書紀・崇神天皇 四道将軍

註:大国魂神は古事記では須佐之男命(素戔男尊)の孫(大年神の子)と
されていますが、同時に大年神は大国主神と腹違いながら兄弟神であると
いう事なので「まるきり関係がない」というわけでもないのです。
※古事記・須佐之男命 大蛇退治、大国主神 大年神神裔

崇神天皇六十年に「出雲の神宝が見たい」というはた迷惑な詔が出され、
管理していた出雲臣兄弟の間に諍いがおこります。
諍いをはばかって、しばらく祭祀を行わなかったところ、子供の歌を通じて、
出雲からなんと日の神信仰の象徴ともいうべき神鏡登場。
「水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。
力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の宝。宝の主。山河の水の洗う御魂。
沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の主。」

天皇は勅して鏡を祭らせなさった。※日本書紀・崇神天皇 神宝

垂仁天皇二十五年。天照は豊鋤入姫命から垂仁皇女である倭姫命に祭祀が
移ります。
最初の元伊勢は現在大神神社の摂社である檜原神社でしたが大和、紀伊、吉備(!)、
また大和、伊賀、近江、美濃ときてようやく伊勢に落ち着くことになります。
※日本書紀・垂仁天皇 伊勢祭祀

ですから、古には三輪山に大物主と天照が同時に祭られていた時期があったわけですね。
そもそも天照とセットで祭られていた大国魂神そのものが三輪の神の別名だったのです。
なので、曲の最後、キリ地で

キリ地
思へば伊勢と三輪の神 思へば伊勢と三輪の神 一体分身の御事今更何と磐座や


と、結びつくわけです。
これでとりあえず、神の系譜は一応繋がりました。あくまでも記紀上では。
現在、伊勢下宮で祭られている豊受大神の勧請は大分後の雄略天皇期です。 ※外宮社伝

ただ、古代の民族紛争や祭祀遺跡にまで話が及ぶとどんどん脱線してしまうので、
そのあたりは割愛。
あくまでも、記紀の類は「勝者の理論」で作られた記録ですからね。

お能の『三輪』の構成についてはまだ続く…かもしれない

| 硯にむかひて | 16:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『三輪』考

『三輪』
シテ:里の女/三輪明神
ワキ:玄賓僧都
アイ:里の者

三輪山に座する三輪明神は素戔男尊の血筋にあたる大国主神(大己貴命)
の和魂「幸魂奇魂」であるとされます。※日本書紀・神代上
なぜ、三輪の前シテは女性なのだろう。というと、これは古事記に登場する
活玉依姫をモチーフにしているのであろうことは想像に難くないような。
※古事記・崇神天皇 三輪山伝説

前シテの里女が僧都の庵に日々、閼伽水と樒を届けることにより、女は僧都より
一枚の衣を給い、去り際に僧都に。
「何くに住む人ぞ」
と問われ、女は
「妾が住家は三輪の里 山本近き処なり その上我が庵は三輪の山本恋しくは
とは詠みたれども何しに我をば訪ひ給ふべき なほも不審に思し召さば
訪ひ来ませ」と、そして「杉立てる門をしるしにて 尋ね給へと言ひ捨てゝ」
姿をかき消していまいます。
活玉依姫に関してはクセから古事記にほぼ忠実に語られており、以下謡。

クセ
されどもこの人 夜は来れども昼見えず ある夜の睦言に 御身如何なる故により
かく年月を送る身の 昼をば何と烏羽玉の夜ならで通ひ給はぬはいと不審多き事なり
唯同じくはとこしなへに 契をこむべしとありしかば 彼の人答へ言ふやう
げにも姿は羽束師の 漏りてよそにや知られなん 今より後は通ふまじ
契も今宵ばかりなりと懇に語れば さすが別れの悲しさに帰る処を知らんとて
苧環に針をつけ 裳裾にこれを綴ぢつけて跡をひかへて慕ひ行く
シテ
まだ青柳の糸長く
地謡
結ぶや早玉のおのが力にさゝがにの 糸繰り返し行く程に この山本の神垣や
杉の下枝に止りたり こはそも浅ましや契りし人の姿か その糸の三わげ残りしより
三輪のしるしの過ぎし世を語るにつけて恥かしや


また前後しますが、こうしたことを背景にアイ(大蔵流)が語る三輪山の由来は

伊邪那岐・伊邪那美命 奥津磐座の苔筵にて男女の語らいを成し給い
一女三男を儲け給ふ 一女は天照大神の御事なり また三男は月神、蛭子、
素戔男尊
その素戔男の御子に大己貴神と申すは即ち当社大明神の御事なり
また大物主神と申し奉り候
さるによつて世の御神は御所御拝殿などを儲け執り行いするが 当社には御社も無く
ただ杉を御神木とも御神体とも崇め御申し候


三輪山は山そのものが神体のようなものなのですが、大神神社の由来によれば
「(大物主神)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。
それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、
原初の神祀りの様が伝えられて おり、我が国最古の神社であります。」
との事。

さてなぜ他に貴顕・智僧もあまたいる中、ここに玄賓僧都が登場するのでしょう。
僧都は河内国出身で、生没年もはっきりしており天平六年(734年)に生を受け、
弘仁九年(818年)の旧暦六月に没した事がわかっています。
僧都は中央での出世に背を向け、伯耆国~吉備中国に隠棲します。
僧都事跡の中に一つ気になるものがあります。
晩年に近い時期に隠棲していた備中哲多郡(鉄が多く採掘できるので元は「鉄多」といったらしい)
に対して庸米の代わりに鉄を朝廷に貢進させているのです。
※元亨釈書・嵯峨天皇弘仁七年五月五日詔

伯耆~備中といえば思い切り旧出雲の勢力圏で彼の地には今も素戔男尊経津主
祭っている神社や遺跡が多くある場所です。
経津主=伊都之尾羽張神は葦原中国平定の件で建御雷神とともに大国主神(大己貴神)
一族を出雲においやった神でありますが※古事記・葦原中国平定 建御雷神、※日本書記・神代下
伊都之尾羽張は伊邪那岐命が迦具土神を切り捨てた十拳剣でもあり…
※古事記・伊邪那岐伊邪那美命 火神被殺

一説には「八岐大蛇退治」で素戔男尊が使った「十拳剣(天蝿斫・天羽々斬)」
※日本書紀・神代上
が「布都御魂」にあたるとの話もあり。←石上の御祭神
(現在それを今祭っているのは物部神道の奈良の石上神宮…といわれますが、
書記では大蛇を斬った剣は「吉備の神部のところにある※日本書記・神代上 」と
書かれているのだよ。後に勅により奈良に遷したとも)
経津主は素戔男尊とともに筋に連なる三輪明神(大国主神=大己貴神)と非常に
縁が深いともいえます。

では大国主神の一番メジャーな祭祀地はいずこか。
悩む必要もなく「出雲」です。出雲といえば鉄ですよ鉄。
現に大物主神は三輪で勢夜陀多良比賣(玉櫛媛)を妻とし比賣多々良伊須気余理比賣
(姫蹈鞴五十鈴姫命)という姫を儲けていますが、この母子に共通する名前はそのもの
ママですしね。活玉依姫と玉櫛媛は同一であるという見方の説もありますし。
(出会い方が大分違うんですけど)
ちなみに上記の布都御魂は神武東征にも天から降しおかれましたが、後に神武天皇が
后選定の際に選んで大后としたのがズバリ伊須気余理比賣。※古事記・神武天皇 皇后選定

ふ…深くなってきたなぁ。この続きを続けるかどうかは神のみぞ知る。

ところで、我が氏神、赤城神社のご祭神岩筒男神は経津主神の御祖神で…うわぁ

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| 硯にむかひて | 16:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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子寶三番叟

さて、でてきた譜本の中で、「子寶三番叟(旧称:子寶三番三)」は新版…
といっても昭和四十四年版ですが…と旧版のものが両方揃っていました。
(旧版も具体的にいつのものかは、ただ版元坂川平四郎の住所表記が
「下谷区谷中清水町壱番地※」とされているので、六代目か七代目の文字太夫の頃
のものだろう。というのは判りますが)

※下谷区谷中清水町壱番地…今の上野の池之端四丁目あたり

新版中表紙の見返しには

「能楽より採つた「式三番叟」を、更に和らげ、間狂言仕立にした祝儀曲で、
主題には子福者、即ち子寶である。八幡大尽といふ子澤山の長者が、太郎冠者
の勧により、おのれの子福者を物語り、男女合はせて十二人の児ども等が、
戯れる四季の遊び事を真似て、さも楽しげに唱い舞ふ曲。題名は元「子寶三番三」
であつた。…(後略)」

との一文。元が「三番三」というからにはやはり元々、少なくとも曲の成立した
天明年間には大蔵流の狂言が江戸ではスタンダードであったということでしょう。
今、芝居の松羽目ものでも大体演出は大蔵系統のものが多いですしね。
じゃ、いつ「三番三」が和泉流表記の「三番叟」になってしまったのかなぁ。
「寿式三番」をはじめとする芝居系のものは派生狂言を含めて皆「三番叟」表記
ですし。謎です。
ちなみに旧版の表記は「三番三」なので、少なくとも明治期までは大蔵流表記も
使われていたということですね。

さらに、新版の方は揉~大名、太郎の台詞~謡部分しか書かれていないのですが、
旧版の方ですと箇所箇所に「ハル」「含」「二上リ」「ユリ」などと書かれている
ので昔のものの方が親切。
冒頭の「置鼓」も表記は旧版のみですが、コレがつくという事は、頭に鼓と笛の音取
が入るということで、文字通り「重い」扱いを受けているのがわかります。

で、短い曲なのでテキスト化してみました。おひまな方は「続きを読む」からどうぞ。

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| 書籍 | 18:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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古本格闘

故・祖母の地袋戸棚から常磐津の浄瑠璃譜本などがどっさり出てきました。
誰も手をつけたがらないから私一人で整理しましたよ。
(ある意味ボロい「古紙の山」だからなぁ・・・触りたくない気持ちは判りますが)

明治20年新富座初演の「新曲(!) 紅葉狩」とか同23年「戻橋」歌舞伎座初演
とか同24年「増補女鳴神」歌舞伎座初演などの当時の所謂「番付」が発掘され
てしまって、もうどうしたらいいやら。
物持ちいいなぁ祖母ちゃん…と思ったけど、世代で言ったら曾祖母かも
これはうちなんかに置いておいていいもんだろうかと。
えぇーと、明治24年の鳴神尼が福助すよ福助。後の五代目成駒屋だ。
絶間之助が二代目坂東家橘。どんだけwww

発掘された浄瑠璃本は新版、旧版などカブリもありますが、
のべ曲目でこれだけ(下記一覧)。
常磐津協会webの曲目欄にも載っていないのが多かったです orz
奥付名義が豊後大掾のもあるしなぁ。うへー
一冊、外題が欠けて不明な本があるんですが、奥付に文久二年守田座と
記してあったので、多分「恨葛露濡衣(小夜衣)」の下巻なのではと推測。

「女鳴神」「紅葉狩」 ・朝顔日記 宿屋の段
 ・今様夜討曽我
 ・歌徳恵山吹
 ・恨葛露濡衣
 ・大森彦七
 ・恩愛瞶関守
 ・神楽諷雲井曲毬
 ・神路山色捧
「紅葉狩」表紙. ・勢獅子劇場花篭
 ・岸漣常磐松島
 ・内裡模様源氏紫
 ・子寶三番三 表記ママ
 ・三世相錦繍文章
  三社祭礼の段/福島屋の段/道行蝶吹雪 
 ・三幅対和歌姿画
 ・忍夜戀曲者
朝顔日記 五行本 ・忍夜孝事寄
 ・雙六盤露の玉藻
 ・関取千両幟 喧嘩の段/角力の段
 ・薪荷雪間市川
 ・壇浦兜軍記 琴責の段 
 ・積戀雪関扉
 ・主誰糸春雨
 ・后の月酒宴島薹
「関扉」「琴責」 ・乗合船恵方萬歳
 ・初戀千種濡事
 ・花舞薹霞の猿曳
 ・本朝廿四孝 四段目
 ・道行戀三度笠
 ・三保松冨士晨朝
 ・戻橋
 ・奥州安達原 雪降の段

文字初さん、阿古屋までやってたのか…

| 書籍 | 16:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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