花月草子

清涼山の御亭

2009年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年01月

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本年もありがとうございました

今年もなんとか年の瀬を迎えようとしております。

今年は色々と体調の不具合も重なり、どうなることかと思いましたが
それでも無事に舞囃子をつとめさせて頂くことができまして、
これも皆、常々お世話してくださる方々のおかげと痛感しております。

色々と今年も舞台を拝見させていただきまして、いかに自分が恵まれて
いるのかなどとも、考えなおす事の出来る一年でした。
来年もまた一歩一歩、見る目を養って行きたいと思っております。

今年一年おつきあいくださいました皆様、有難うございました。
よいお年をお迎え下さいますよう、お祈り申しあげます。

管理人敬白
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| よしなしごと | 15:54 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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猛火となってその身を焼く

今年も観能納めは第二十四回を迎えます「二人の会」となりました。
主だった出演は五月とほぼ同じでの、番組も同じ『猩々乱』と『道成寺』。
狂言は今回は『福の神』となっています。

塩津先生によります舞囃子『猩々乱』。前回の香川先生の時と同じく、
猩々が見せる平衡感覚が素晴らしい。どこまで日々精進したらあそこまでの
バランスの取れた姿を保っていられるのだろうと感心します。
静止した所から次の型に移るまでの間、ピタリと動かないのです。
装束を付けないがゆえに余計にそのシンプルさが際立ち、シンプルがゆえに
ごまかしがきかない。
春と同じく印象深い猩々乱となりました。

『道成寺』。今日の閑先生のいでたちは紫衣の僧。名乗リから、鐘が吊られて
(本日の鐘はすっきりとした形で、緑の牡丹唐草の引キ回シを縫いつけ、
竜頭に紫の房を一たらし下げたものです)
能力に供養の向きを言いつけるまではごく静かに。
乱拍子はなにやら常よりとても長く感じられました。一歩一歩踏みしめて近づいて行く
張り詰めた緊張感。
一転急ノ舞では鐘に対する心の堰を切ったような勢いのある舞を見せ、中啓で烏帽子
を飛ばすところなどは勢いあまって白洲まで烏帽子が落ちていき、一気呵成の鐘入リ。
既にこの段階で白拍子は鬼女の片鱗を見せているのではないかなという勢い。

鐘入リして後の閑先生の従僧に真名子荘司姫の悲恋を語るくだりは調子あり、緩急あり
姫の思いをそのまま伝えるよう。
後の蛇体の装束は赤頭に白のモギドウ。鱗模様は無かったような気がします。
黒の腰巻にまとうのは前シテの唐織ではなく、替エで白練となりました。
鐘が上がって、まだ下居のままの姿から顔をちらりと僧の方にむけ、ぐっと
にらみを効かす様はもうすでにぞっとする程の「妄執の固まり」といった感満点。
今まで拝見した道成寺よりさらに人間味が押し殺された部分が強い。
それゆえに悲しさ、哀れさが際立つというのでしょうか。
イノリでの奮闘ぶりも強さとともに悲痛感があふれる。
通常、最後近く、イノリの佳境ともいえる
「祈りいのられ~」
ではシテ柱にすがる、或いはよりかかるような蛇体が多い中、本日は、
一ノ松と二ノ松の中ほどの欄干にもたれ、崩れ倒れるように、まさに
「かっぱと転ぶが又起き上がって」
という姿。
未だ鐘にも執着を見せ、打杖で鐘を強く叩いてみせるなど、心の中に
燃える瞋恚ノ焔の強さをこれほどまで見せる蛇体は初めて拝見しました。

最近、年末は香川先生に冷水浴びせまくられてる感が強いです。(笑)

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| 能・狂言 | 20:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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この九寸五分は汝へ形見 我が鬱憤を晴らさせよ

文楽鑑賞教室Bプロです。

前後ばっさり切って三段目と四段目。
・下馬先進物
・殿中刃傷
・通さん場
・城明渡し
というプログラムは正直初心者向けの鑑賞教室という観点で見ると、ハードルが
高すぎるような気もします。
(今時の若い世代は元々の忠臣蔵の話すら「知らない」という子が多いのですよ)

それはさておき。
いやなんとも雰囲気の良い「通さん場」でした。
判官が白装束になって、切腹畳の上にのってからは場内の空気がピーンと張り詰め、
しわぶきのひとつも聞こえぬ静けさ。
判官が短刀に奉書を巻いていく、パリパリという音が耳に響くほど。
芝居ではちょっと今はああはいかないかも。というくらい。

で、通さん場そのものに関しては全く述べる言葉もないのですが、ちょっと残念な
事もあり。
由良助と力弥の足が双方ともによろしくない。
畳に平伏しているのだから、足をたたんだ際に袴の先も引っ張らないと、
正座しているように見えないのです。
両手をついていても片膝立ててしまっているように見えるし、顔を上げては
まるで、言葉は悪いけれど「ウ○コ座り」に見えてしまう。
いくら主遣いや左遣いが頑張っても、足がそれでは台無し。
歩いて振り向く方向 にもあらぬ方へ足が暴走してますし…orz

語りは落ち着いていて良かったかなと。千穐楽にしては声もまあまあ保たれていて。
ただ、「鑑賞教室」としての「語りわけ」というものがどういうものか。
というのが今回のこの段だとあまり活かされないというのが残念。
そうすると、忠臣蔵でもたとえば五段目とか九段目の方が色々と役のバリエーション
もあり、「教室」という意味では向いてると個人的には思います。ムリ?<笑

| 歌舞伎・文楽 | 23:20 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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あら痛はしや御身を知れば 所も鞍馬の木蔭の月

今年も早、納めの会となりました。九皐会十二月定例会です。

『富士太鼓 現ノ楽 』は長山禮三郎先生。
笠の陰もあいまって、おもいつめるような面持ちの出でした。
装束を受け取って恨み言をつらねていくのが、徐々に、徐々に装束に顔を
埋めるようにして泣いていく様への持って行き方は流石という他なく。
一本背筋は崩れない妻が溜めて堪えていたものを全て吐き出すのが、
後に正気を失っての狂乱の体に向かっていく。

「富士」と「浅間」は今となっては別の山と認識されているけれど、本来は表裏一体
の同じものを指す意味であった筈。
(富士山の御祭祀を執り行っているのは本宮浅間大社)
同じ太鼓を志す者の表裏二人として運命付けられたような名前です。
どちらかが死ねば(殺されれば)片方も身を滅ぼす。というような。

富士太鼓、また類曲の「梅枝」ともにシテは富士の妻なのだけれど、
妻の恨みは夫が殺された事よりも、どちらかといえば夫に対して
「だから言わないことじゃない」という割り切れない哀しみというもの
と私には取れます。

嗚呼、でも長山先生とても綺麗でした。<最終的にはそこ

さて今年を締めくくるのは喜之先生の『鞍馬天狗』です。
花見稚児の皆さんかわゆい。
そして喜之先生である。「素敵」としか言い様のない大天狗。
しかも白頭。
年経た古天狗が唯一人残された遮那王に限りない慈しみの心を与える。
なんとも壮大な一ドラマだった気がします。

どんな美辞麗句を連ねても伝えたいことは同じだからほどほどにしないと
くどい文の羅列になってしまう(笑)

ただ、何というのかな。大天狗が遮那王に与えた力は結局遮那王=義経自身
の身を滅ぼすものとなってしまった。
そこまで考えさせられる舞台でした。

納めにこの曲を選んでくださった九皐会の先生方に来年またよいお年を迎え
られることをお祈りしております。

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| 能・狂言 | 23:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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はじめて

正味三年経って、はじめて先生からほめられたような…気がするのは
気のせいにしておいたほうがよさそうなんだろうなぁ。やっぱり。

| 仕舞・お稽古 | 23:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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