花月草子

清涼山の御亭

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そろそろ・・・

蟻通の一件もかたづけたいな。
しかし、この晩夏から職場が変わったとか、また再来週大阪に行ったり、
などと予定がこんでいるので再開まではもう少し時間がかかりそうです。

先日、まったく別の件で播磨國風土記を読んでいたら、
新羅征伐における神功皇后と丹生都比売(爾保都比賣)とのやりとりが
記されておりました。
社伝や記紀では「玉津島の神が非常な霊威をあらわされたため」としか
描かれず、省かれていると言っても良い状態でしたので、播磨國風土記に
目を通していなかったら比売が皇后をどう助けたのか謎のままになるところ
でした。
この件はいずれまとめて。

まぁそのような調子でポチポチと資料集めはしております。
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| 硯にむかひて | 23:55 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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蟻通の続きは…

忘れてはいません。
ただ少し、文献を調べる範囲が広がってきましたので、現在調査中。

でも今の時期、この暑さでは書店に行くのも図書館に行くのもイヤ…
というわけで、気候が落ち着いたら再会しようと思っています。

しばらくお待ちください<苦笑

| 硯にむかひて | 15:29 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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蟻通 -七曲の穴を辿って- 4

別に忘れていたわけではありませんよ(笑)。と逃げておいて。
えーと、何でしたっけ。そうそう。玉津島神社でした。

曲の中で、貫之は玉津島神社へ参詣する理由をして
ワキ次第
和歌の心を道として 和歌の心を道として 玉津島に参らん
「これは紀貫之にて候 我和歌の道に交はるといへども いまだ住吉玉津島に
参らず候ふ程に 唯今 思ひ立ち紀の路の旅にと志し候」

と述べております。

当時、和歌山(紀伊國)の玉津島神社は攝津の住吉明神、柿本人麻呂を祀る
明石の人丸神社とともに「和歌三神」と崇められており、そこに歌人である
貫之が参詣しようとする話の流れはごく自然のなりゆきとも言えます。

社伝によれば、玉津島の主祭神の一柱である衣通姫尊(允恭天皇妃)がその名の
通りの美しさもさることながら和歌の才にも優れ、後の光孝天皇の御世になって
帝の夢枕に
「立ちかへり またもこの世に跡垂れむ 名もおもしろき和歌の浦波」
との歌を詠みたもうた事から勅命により玉津島に合祀され、歌神として宮中に
おいても定期的に歌を奉納する歌会を催してきたとの事。

しかし、玉津島の主祭神は衣通姫尊だけではなく
(というより衣通姫尊は後から合祀された人神ですので)、
もう二柱いらして、まずはなんといっても重要なのは稚日女尊。
そして、「神功皇后」として名高い息長足姫(息長帯日賣)尊。

稚日女尊は天照の妹神として記紀に記録されております。
書紀には
この後に稚日女尊が機殿で、神衣を織っておいでになった。
素戔男尊はそれを見られて、まだら駒の皮を剥いで、部屋の中に投げ入れた。
稚日女尊は驚かれて機から落ちて…(後略)
※書紀 神代 上 天の岩屋 一書(第一)
との天の岩屋の原因の一つともなった有名な一くだりに登場。
また後になって神功皇后の三韓征伐の翌年、諸皇子の国内反乱を平定する際に
姿を現し「活田長峡國(現・摂津國生田神社)に居りたい。 ※書紀 神功皇后
との託宣をします。

さて神功皇后の件についてはまた後の機会として、稚日女尊について話を進めますと、
稚日女尊はいつごろからか定かではありませんが、早い時期から丹生都比売大神と
同一視されることとなりました。
丹生都比売の「丹」は朱=辰砂(硫化水銀)を表し、水銀鉱脈の存在する場所を、
「丹が生まれる」と書いて「丹生」と読みます。
(鉱物を研究される学者間の意見では、「丹」は水銀だけではなく、鉛を元とする
「鉛丹」も含むとされるようです)
辰砂はそのまま朱色の顔料となり、それを精製すれば水銀となり、またお白粉の材料に
もなり、丹生都比売大神は、水銀の採掘に携わる者たちが崇拝する神でありました。
丹生都比売大神を祀る神社は水銀鉱脈などにそうようにあちこちにありますが、この度
クローズアップされるのは現在の、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある総本社
『丹生都比売神社(別称:天野神社、天野四所明神)』。
正応六年(1293)三月二十八日付けの太政官牒写には天野四所明神(丹生都比売神社)
のうち「三大神号蟻通神」の神託がのことが記されており、天野社にも蟻通神が
祀られている。と記述されていました。
で、丹生都比売神社内の蟻通神社は後年、高野山との領有のいざこざで1300年代
にはもう別のお社になっていたとか。※続風土記
これがいわゆる「伊都の蟻通神社」であると思われるのです。
(諍いの原因は「志富田しぶた の領有」とあるので間違いはないかと)

ちなみに、紀伊國では丹生都比売神社と前述3の日前神宮・國懸神宮と伊太祁曽神社、
あわせて三つの神社をすべて一宮扱いにして祀っています。
日前神宮・國懸神宮はそれぞれ前に述べたように神鏡を祀っておりますが、実は
古代鏡の製作の仕上げには水銀がかかせぬものでもあるのです。
以前、伊勢の式年遷宮による、新しい宝物製作を追ったTX系列のドキュメンタリー
が放送されたのですが、鋳型から外した鏡の表面を根気良く丁寧に磨いた後、
職人さんは水銀と錫の混合物を一匙とり、布で見る見るうちに鏡面に伸ばしつけ、
それはそれは美しい鏡面が完成するのです。

貫之は鏡を祭る紀氏の出。玉津島の御祭神、天照の妹神たる稚日女尊は、鏡造り
に欠かせぬ、また不老不死、太陽の力を示す朱を生み出す丹生都比売と同じで、
その丹生都比売神社には元々蟻通明神が祀られていた。

これはまた、妙な展開に…
丹生神社の謎はまだ続くのでございます。

| 硯にむかひて | 14:57 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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蟻通 -七曲の穴を辿って- 3

今日は紀貫之と紀氏のことなど。

貫之の生年については諸説ありますが、一応貞観年間のことではないかという
説が多いようです。
従兄弟の紀友則も生年不詳ですが、こちらは承和年間とも言われているので、
若干年の離れた従兄弟という事になりましょうか。

貫之の父は
紀望行。下野守紀本道の子で名は茂行とも表記。六位の官人 ※勅撰作者部類
この方も生没年不詳。
母は宮中の内教坊の女性(妓女)とされており、幼い頃は母と共に内教坊で育てられ
(『内教坊』:奈良・平安時代、宮中で舞姫をおいて女楽・踏歌などを教え練習させた所。 ※大辞泉)
童名を「内教坊阿古久曽 (あこくそ)」と呼ばれていたとか。※古今集 清輔注・続群書類従
「久曽」は「○○ちゃん」という意味になるので、現代読みにすれば「あこちゃん」。
ということで、幼少の頃から(女房ではない)女性に囲まれて育ったというのは貫之の
感受性に大きく影響を与えたのではないかと推察されます。

さて、貫之、友則と三十六歌仙の二人を生み出した紀氏は一般に「和歌の家系」と
とらえられる事が多いですが果たして。

紀伊続風土記によれば神武の頃より続く国造家の一つで、その家系は天皇家のほか、
出雲国造家、諏訪大祝家などと肩を並べるほどに歴史が古く、現在も紀家の方が
紀伊國一宮である日前神宮・國懸神宮を奉戴し祀っているという事です。
日前神宮の御神体は岩戸隠れの際に、神々が天照を外に出すために用いた御鏡と
されています。
主神は日前神。
相殿の神はこの謀事をめぐらせた思兼神と、鏡を製作した石凝姥(イシコリドメ)命。
「石凝姥を工として、天香山の金を採り。日矛(鏡)を造らせた。また鹿の皮を剥いで
フイゴを造った。これを用いて造らせた神は紀伊國においでになる日前神である」
※書紀 神代 上 天の岩屋 一書(第一)
「上の枝には鏡作部の遠い先祖の天抜戸の子、石凝戸辺命が作った八咫鏡を・・・(後略)」
※同 天の岩屋 一書(第三)
古事記では
「思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を
採り、天の金山の鐵を採りて、鍛人天津麻羅(カヌチ アマツマラ)を求ぎて伊斯許理度賣命
に科せて鏡を作らしめ」※古事記 四 天の石屋戸
とあります。
つまり、この神宮両社の御祭神は相殿神も含めて

日前大神:八咫鏡(天照の前魂“さきみたま”)
思兼命:天照を引き出す案を考えた
石凝姥命:鏡を作った
玉祖命:鏡と共に飾った八尺瓊勾玉を作った
明立天御影命:鍛治(鋳物・刀匠)の神(鍛人天津麻羅?)
鈿女命:いわずもがな

と、岩戸作戦の実行メンバーがズラリと揃っております。
また、このうち、石凝姥命・玉祖命・鈿女命は他の岩戸メンバーである天児屋命、
太玉命と一緒に瓊瓊杵尊に従った天孫降臨メンバーでもあります。
この際、天照から瓊瓊杵尊に鏡と勾玉が下しおかれたと書紀 ※神代 下 葦原中国平定
にはありまして、まぁ八咫鏡といえば伊勢にあるものが有名なのですが、
この日前神宮・國懸神宮でも同じ意味をもつ鏡を祀っていますので、後には朝廷も
両社には神偕・神位を贈らず、伊勢とほぼ同等の社格を持つ「日の神を祀る」御社
として崇敬を集めていたといいます。
また、紀氏の祖神は天道根命と伝えられており、天孫降臨について従ったとされて
いますがこれも諸説あり、
「瓊瓊杵尊に従い、神武東征の論功により紀伊國を賜る」※紀伊国造系図
や、瓊瓊杵尊ではなく、饒速日尊についてきた。とする説もあり、このあたりは
はっきりとはしていません。ついでに
「紀伊国造は五十猛命、大屋姫命、抓津姫命の所謂伊太祁曽三神を祀る」※先代旧事本紀
としている説もありましてね・・・ 先代旧事本紀てあたりがうさんくさい気がしなくもない<苦笑
ただ五十猛神たち三神は林業神なのですけど素戔嗚尊の子で、現在の日前・國懸神宮
のある場所に元々「伊太祁曽神社」として祀られていたのを垂仁16年に両神宮が建て
られる事になりその地を開け渡した。と社伝にあり。
「紀ノ國」の語源は「木ノ國」との説も捨てがたいですね。

さらに、紀氏には武内宿禰の血筋にも連なるとの記録が書紀に記されており、
景行三年春二月一日、紀伊國に行幸されて、諸々の神祇を祭ろうとされたが、占って
みると吉と出なかった。そこで行幸を中止された。屋主忍男武雄心命を遣わして祭らせた。
武雄心命は阿備の柏原にいて、神祇を祀った。そこに九年住まれた。紀直の先祖莵道彦の
女(娘)影媛を娶って、武内宿禰を生ませた。※書紀 景行天皇
との記述。
古事記ですと宿禰の父は孝元天皇の皇子で比古布都押之信命となっており
ますが、この辺はまぁどちらでも。
宿禰の子は多く、いずれも蘇我臣、巨勢臣、葛城臣など沢山の氏族がここから散って
行くのですが、母方の姓を受け継いだ紀臣(紀氏)も含まれます。
そして宿禰自身はこの後、神功皇后の三韓征伐に宿禰は赴く事になりますが…

とりあえず、(建前上)紀氏は日の神(鏡)を祀る一族であったという事。
廷臣となった後は武職を持って仕えるも(飛鳥朝あたりまで)、後に藤原氏の台頭に
より中央政権からは退き、社家、また文の才をもって仕えるようになっていきます。

さて、蟻通明神とはどうつながっていくでしょう?
おや?確か伊都の神社の今の主神は思兼神でしたね?

次は曲の詞章中に登場するもう一つの御社。玉津島神社の事など触れてみたいと。

| 硯にむかひて | 16:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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蟻通 -七曲の穴を辿って- 2

神社やその背後に連なる背景については色々と資料が錯綜している状態ですので、
まずは「蟻通明神」の基本をおさえる為に両社の縁起を並べてみます。

「蟻通明神」とはそもいかなる由縁を持ってその名とするのか。
まずは長滝の神社から。
記紀にての記載はありませんものの、御由緒によれば、
祭神は大国主命(大己貴命)
開化天皇 紀元93年に創祀、五穀豊饒長寿の神として祭られる。五世紀頃に新羅より
新羅王億斯富使主※ 率いる優秀な技能集団が渡来し、条里制農地を造り国土開発の
神として崇められる。
え?大国主命??
新羅王億斯富使主※ についてはちょっと今は頭の隅にでも覚えておいて下さい。

蟻通伝説についてはちょっと長いので私訳でかいつまんで。枕草子がお手元にある方は
二百四十四段をあわせてご覧下さい。
時の帝は若い者のみを尊び、老人をいたわる事をしませんでした。
さらに、「四十歳以上の者は全て山などに捨ててしまえ」などと触れを出す始末。
孝行者の中将は命に背いて密かに屋敷内に地下室を造り、老親をかくまっていました。
ある日、外国の使節から帝は三つの難題を出されます。解答がなければ攻め寄せると。
中将は親に相談し、先の二つの謎を解き、最後の難題。七曲の玉に糸を通す方法を親に
尋ねます。
「わけはない。玉の片方の穴に蜜をぬり、蟻に糸を結びつけて入れれば糸は通る」
帝の前でその通りにしてのけた中将に、帝は
「見事だ。どのようにして考えたのか?褒美をとらせる」
と褒めますが。中将は答えて、
「これ全て私の老親が答えを示したものです。褒美と仰せならば、老人を世に
かえしてやって下さいませ」
帝はいたく感心し、「老人の知恵は国の宝である」と老人解放の許しを出し。中将は
大臣の位までのぼり、後には神となったとか。

もう一つ。
こちらは伊都郡かつらぎ町の蟻通神社(以下、「伊都の神社」とします)の御由緒。
開化天皇の時代に勧請。崇神天皇の時代に意富多々泥古神を神主として拝祭
したと伝わる。
(現在の祭神は思兼命)かつての祭神は意富多々泥古。
三輪氏の意富多多泥古さん再登場。さらに
天武天皇白鳳二年(673年)唐の高宗が日本国の知恵を試さんと七曲の玉を
献じこれに糸を通せと難題を掛けてきた。そこへ一人の翁が現れ山蟻の腰に糸を
結んでこれを玉に入れ一方の出口には蜂蜜を塗った。蟻は密の香りを慕って七曲
の玉を通り抜け、見事糸を通すことが出来た。翁に名を問うと
「七曲にまがれる玉の緒を貫きて蟻通しとは誰か知らずや」
と一首歌を詠んで消え去ったと伝わっている。拠って神人ならんとこの年神号を
蟻通と賜り志富田(渋田)荘の氏神として崇め祀る。-境内の由緒碑より-
最初が人(中将)か、あるいは最初から神様であったということはさておき、いずれにしても
「七曲の玉にを使って糸をした」という点がポイント。
話の伝承は一般的な昔話である「うばすて山」のカタチを取って各地にも残っており、
それによって「玉」であったり「貝」であったりとモチーフは変わるのですが、おおまか
内容は同じです。
(長野県下伊那郡にまでほぼ同じ話が伝わっています。 岩波文庫『日本の昔ばなしⅢ』

しかし・・・ここでもまた大国主と意富多多泥古とは<苦笑

| 硯にむかひて | 18:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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